言い換えれば、ここで想定されている事態は、意識化(記述可能な形での対象化)のレベルという先の観点から見るなら、次のように考えることが可能である。すなわち、ここでは、「延命」という事態=Aは、「場合によっては遺伝子改変を行うことも想定した高度な医療技術による介入=X」という属性を持つかもしれないが、「それ=X以外の何か<non-X>」の属性、言い換えれば、純粋な「技術的介入の不在」としての、「ひとつの生に対して純粋に受けること」という属性をも持つのではないかという半ば無意識の判断が表出されている。
既述のように、ここにおいても「A=X」と判断し得る可能性と「A=<non-X>」という無限判断とが並置されている。すなわち、「A=X」かもしれないが「A=<non-X>」でもあり得るということである。ここでのポイントは、この「並置」という事態が、既述の「必ずしも記述主体にとって意識化(記述可能な形での対象化)されない様態(において想定されている)」という事態に対応すると考えられるということである。
この「つまり」という言葉は、それ自身の前後の文または記述がそこにおいて生成する文脈を整合的に分析可能なものとして決定する力を持っていない。むしろこの言葉は、これら接続困難な記述同士の<間>に生成する、この記述を行った主体=個人の経験を表現している。この個人の経験を、ある一定の「自らの価値観」がそれを通じてそれぞれの個人にとって再帰的に(記述可能なものとして)立ち現れてくる(生成する)ような、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程として分析することが課題であった。
次に、この個人=記述主体によって、テーマ文2に対して、「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」という記述がなされたと想定する。記述の表現はやや分かりにくいが、少なくてもここには、これまでには見られなかった、「技術的に作られた生」は必ずしも完璧ではないのではないかという懐疑の意識が一定の記述へともたらされている。これは、テーマ文2に対する懐疑的な文脈の発生として捉えることが可能である。ただし後に見るように、ここでの「一定の記述へともたらされている」という事態は、記述主体による意識化(記述可能な形での対象化)あるいは認識という事態の必要条件であるが、必ずしも十分条件ではない。
まず、この個人によって、遺伝子改変をも含む生殖技術が、社会的・文化的にいわば世代間連鎖する可能性が着目されている。すなわち、この連鎖によって、個々人の選択に際して、技術的な力による子どもの生産という「必要性」が暗黙の強制力として作用する可能性が記述されている。ここには、「個々人の意思決定=選択行為」という事態に対する再帰的な認識の端緒が見られるといえるだろう。とりわけ、「必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」という精緻で鋭い表現による問題提起が注目に値する。
言い換えれば、ここでは、私たち個々人が、いったん遺伝子改造という技術によって「技術的に作られた生(子ども)」を生み出してしまえば、そうして生み出された子どもは、さらにはそれ以外の社会の成員も、<技術的な子どもの生産>という「強制力を持った必要性」を有する社会的制御過程(social control process)のもとへと組み込まれるのではないかという認識の端緒が記述されている。
以上のような分析によって、ある個人(記述主体)が何らかの判断(整合的に記述可能な形での対象化)や認識へといたる道、すなわち個人が何らかの整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程を想定することが可能になる。ある一つの記述の断面においては明確な文脈が不在であるように見えても、その断面がさらに別の記述へと接続していく展開過程を遡行的に追跡することにおいて、何らかの文脈の生成過程を垣間見ることがあり得る。
「ある個人(記述主体)が何らかの判断(整合的に記述可能な形での対象化)や認識へといたる道、すなわち個人が何らかの整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程」という先の表現は、個人(記述主体)が何らかの判断や認識にいたる過程それ自身は、いわばリアルタイムで(同時並行的に)その個人(記述主体)によっては意識化(記述可能な形での対象化)されないということを意味する。すなわち、記述主体による記述過程それ自身のメタレベルにおける(同時並行的な)記述は端的に不可能である。
さらに、こうした無意識の過程を通じて得られた判断や認識は、そうした判断や認識を表出していると見なすことができる記述がなされた後ですら、必ずしもその個人(記述主体)によって意識化(記述可能な形での対象化)され得ない。個人(記述主体)によるその都度の記述行為(の遂行過程)は、その個人(記述主体)による意識化(記述可能な形での対象化)の必要条件であるが、必ずしも十分条件ではない。
だが他方、この同じ個人(記述主体)が、リアルタイムでの(同時並行的な)記述行為という端的に不可能な形ではなくても、上記の無意識の過程を意識化(記述可能な形での対象化)していく過程を想定することもできる。すなわち、ある個人(記述主体)が何らかの判断や認識へといたる無意識の過程が、この個人(記述主体)にとって何らかの判断や認識へといたる道の意識化(記述可能な形での対象化)過程ともなるということである。
すなわち、上述の「ある個人(記述主体)が何らかの判断(整合的に記述可能な形での対象化)や認識へといたる道、すなわち個人が何らかの整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程」という表現が指示する事態は、この意識化過程のことでもある。
先の事例においては、この過程は、「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもが子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」といった記述の生成過程において想定された。
だが、ある個人の判断や認識の無意識的な生成過程であり、意識化の過程でもあるこうした過程は、言うまでもないが、必ずしも一定の方向を持ったものではない。あるいは、この過程は、ある一定の方向へと向かって、(それがどのような意味であれ)一層高い意識化の段階を経ていくといった過程ではない。また、この無意識の過程や意識化の過程の<総体>の基底となるような主体もここでは想定されていない。
他方、ある判断や認識へといたる意識化(記述可能な形での対象化)の過程が、ある別の判断や認識へと向かう無意識の変容・分岐の過程を生成することがあり得る。この変容・分岐の過程は、ある別の判断や認識へと向かって生成する創発的な過程である。この過程は、ある判断や認識の無意識の生成過程であり、その意識化の過程でもあり、さらに他の判断や認識へと変容・分岐していく無意識の創発過程である。
次に、この個人=記述主体によって、テーマ文2に対して、先の「技術的に作られた生は(……)必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」という記述に続いて、「生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」という記述がなされたと想定する。
先に、この個人が、技術的な力による子どもの生産という必要性が強制力として作用する可能性を記述したという分析を行った。その際、この個人が、こうした記述が表出していると見なすことができる認識――すなわち、技術的な力による子どもの生産という必要性が強制力として作用する可能性に関する認識――をどの程度意識化(記述可能な形での対象化)し得ていたのかについては想定されていなかった。だが、もしこの個人がこうした認識を得たのであれば、この認識が生成された意識的・無意識的な過程が、ある別の判断や認識へと向かう意識的・無意識的過程へと変容・分岐していく何らかの契機になったといえる。すなわち、この個人が、「生きるということについて、生きること以上の欲はないのではと思う」という「ある別の判断や認識=記述」へと向かって変容・分岐したきっかけは、先に見た社会的・技術的な強制力に関する認識の意識化(記述可能な形での対象化)過程であるといえるのではないか。
だとしても、私たちは、個々人がある判断や認識へといたる意識的・無意識的過程が、ある別の判断や認識へと向かう意識的・無意識的過程へと変容し分岐していくという事態(の<総体>)を、何らかの因果的関係のもとで認識(記述)する力を持っていない。既述のように、私たちは、その都度生成された個々の判断または認識の生成過程それ自体に関する認識、言い換えればメタレベルにおける(同時並行的な)記述を成し得ない。また、想定され得る生成過程の<総体>において、複数の判断または認識の生成過程が変容・分岐しつつあったとしても、それら複数の生成過程相互の関係へといたる認識、あるいはメタレベルにおける(同時並行的な)記述を成し得ない。
私たちにとって、ある判断や認識(記述)の生成過程と、ある別の判断や認識(記述)の生成過程とは、何らかの偶然的な創発過程として互いに関係づけられている。言うまでもないが、ある判断や認識(記述)の生成が他の判断や認識(記述)の生成の「きっかけ」となるという(その都度の生成に対して事後的にしか記述し得ない)事態は――ある固有な記述(系列)の生成としての――任意の個人にとって予測不可能な偶発的出来事である。
「生きるということについて、生きること以上の欲はない」という記述は、私たちにとって、それ以上の分析が困難な問題群として生成している。例えば、ここで「生きること以上の欲はない」というその欲(欲望)は、どのような様態を持つものとして、あるいはどの程度普遍的なレベルで考えられているのか。例えば、生殖細胞系列の遺伝子改変を不可避的に伴う「治療」や「改良」をこの欲望はその対象とするのか。また、ここでの「生きること=欲」という何かは、「何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康な生」を求めて、遺伝子改変を含む「高度な技術」を生み出したり利用したりするものとして――あるいは、そういった技術を生み出したり利用してまで生き延びようとするものとして――想定されているのか。
この記述は、直前の記述「技術的に作られた生ははたして完璧でしょうか? 技術的に作られた子どもがまた子どもを産むときにまた技術的な力が必要になったり、必要性を選ぶより選ばざるを得なくなるのではないか」とどのような文脈を形成しているのか。既述のように、この個人が、技術的な力による子どもの生産という必要性が強制力として作用する可能性を認識(記述)したとするなら、この認識(記述)がきっかけとなって、そうした強制力が「生きるということ」そのものを貫く欲望あるいは力として捉え返されたのか。
だが、ここでこれらの問いに対してさらに明確な答えを探ることは困難である。この分析の困難さは、先に見た「つまり、ひとつの生に対して純粋に受けることも必要ではないか」という記述に関して見た分析の困難さと共鳴している。
これまで見てきた、「ひとつの生に対して純粋に受けること(の大切さ)」、「技術的に作られた生(の完璧さに対する懐疑)」、「生きること以上の欲はない」といったそれぞれの判断や認識(を表出する記述)は、<総体>として一定の文脈を形成しているというよりも、むしろそれぞれが新たに分岐した生成過程において創発されたと捉えることができる。しかし、このことは、言うまでもなくいかなる文脈の想定も不可能であるということではない。先に述べたように、その都度何らかの無意識の文脈の生成過程が想定されているし、またそうした文脈の意識化過程も同様に想定されている。だが、この文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列として意識化(記述可能な形での対象化)することは、私たちが予想する以上に困難である。
「文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列として意識化(記述可能な形での対象化)することは、私たちが予想する以上に困難である」という分析結果は、あくまでも当該の分析対象に関する暫定的なものであった。また、直ちに普遍化可能なものとして得られたのでもなかった。しかし、この分析結果を普遍化する道もあり得る。文脈の生成は、無意識的なものであり、同時に――ただしこの「同時に」とは、「メタレベルにおける同時並行的な」という先に検討した含意を持たないのだが――意識化され得るものであった。だが、それだけに、何らかの(様態における記述の生成としての)文脈の生成は、この私にとってリアルなものである。無意識的なものであり、同時にリアルなもの――対象化可能な記述――として意識化され得るというこの文脈の二重性(あるいは多重性)が、私たちの生存の根底において見出された。
次に、この個人=記述主体によって、テーマ文3に対して「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる。しかし、親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない。技術的なことを加えるよりその選択もありではないかと思う」という記述がなされたと想定する。
このテーマ文3に対する応答においては、「障害を持った生を自ら肯定すること」への着目が見られる。この個人にとってこうした着目が可能であること自体、このような個人の生に対する肯定的な構えの現われであるのかもしれない。だが、他方、障害を持つ本人による肯定とは別に、親の選択としては、「技術的なことを加えるより」――すなわち、遺伝子改変という選択肢を取るよりむしろ――出生の予防という選択肢を取ることも否定できない(「その選択もありではないか」)と分析され得る記述がなされている。
ところで、この「その選択もありではないか」という記述が生じた文脈は、この個人によってどの程度意識化(記述可能な形での対象化)されているのか。あくまでも仮説的な分析に過ぎないが、この文脈は、次のような一連の過程において意識化され一定の記述として生成してきたと考えられる。
まず、ここに到って、技術的に作られた生に対する「懐疑」の意識化がこれまで以上に高まっている。そのことが、「技術的なことを加えるより」という表現として記述されている。ここで、「技術的なことを加える(こと)」とは、生それ自体の操作としての遺伝子改変であると考えられる。この遺伝子改変によってもたらされる、技術的に作られた生に対する懐疑の意識化(この個人=記述主体にとって記述可能な形での対象化)が進むとともに、遺伝子改変によってもたらされる、技術的に作られた生という事態に対する負の価値付けがもたらされる。そしてこの遺伝子改変との対比において、先の「親の選択としては否定できない」(「その選択もありではないか」)という認識を表出する記述が生成されたといえる。
ここで直ちに気づくのは、「遺伝子改変という技術的な付加よりも受精卵を選別・廃棄すること(出生の予防)の方がまだしも許容され得る」という判断または認識が生殖細胞系列に対する遺伝子レベルでの技術的介入の肯定を意味することが、この個人によって意識化あるいは認識されてはいない、ということである。
先に、「文脈を何らかの判断や認識の整合的な系列として意識化することは、私たちが予想する以上に困難である」という分析結果が普遍化可能ではないかと述べた。この仮説は、今見た意識化過程あるいは文脈の生成過程が、かなりありふれたものであろうというもう一つの仮説と対応している。すなわち、「この私の文脈」の整合的な認識が困難であるからこそ、「遺伝子改変よりも受精卵の選別・廃棄の方がまだしも許容され得る」という認識を表出する記述がありふれたものとして生成するという仮説である。
以上のように分析された事態は、さらに以下のように分析され得る。
もしこの個人が、自らの認識の生成過程を整合的に意識化(この個人=記述主体にとって整合的に記述可能な形での対象化)していたとすれば、この個人は、遺伝子改変と受精卵の選別・廃棄を「生殖細胞系列に対する遺伝子レベルでの技術的介入」という同一の認識論的座標軸において位置づけ得たはずである。言い換えれば、前者よりまだしも後者が許容され得るというこの個人の認識は、この同じ個人によって、それ自体整合性を欠く(「矛盾」をはらむ)ものとしてこの個人によって意識化されたはずである。
だが、必ずしも事態はこのような単純化を許すものではない。まず、この個人が、上述の「矛盾」を認識し得たかそれとも認識し得なかったかという単純な二者択一は成立しない。そのような問いは、分析にとっては決定不可能なものにとどまる。その意味で、ここで意識(認識)の「矛盾」あるいは「整合性の欠如」を単純に想定することはできない。
というのも、先の個人の記述に関して、次のような分析も可能である。すなわち、この個人の一連の記述が関係付けられる何らかの文脈の生成過程において、遺伝子改変か受精卵の選別・廃棄かという上記二つの選択肢がともに生殖細胞系列に対する技術的な選別・加工であること――換言すれば、「生命の選別操作」という本分析論において定義した概念に包摂されること――の認識がこの個人にとって記述可能なものとして生成しているともいえる。少なくても、先の一連の記述が関係付けられる何らかの文脈の生成過程において、こういった認識がこの個人にとって端的に記述(による対象化)不可能であったと言い得る根拠は見当たらない。従って、先の一連の記述に関して、この個人は――上記のような認識への到達過程において――「親として不安はぬぐいされない。「出産をあきらめてもやむを得ない」という選択は完全否定できない」と記述していると想定することも可能である。ここで「上記のような認識への到達過程において」という表現は、言うまでもなく、メタレベルにおける同時並行的な認識過程という端的に不可能な事態を意味するのではなく、むしろ、この個人が上記のような認識に関わる整合的な記述を生成しつつそれを対象化していく無意識的かつ意識的な過程(既述の「意識化の過程」)を意味している。
以上のような分析を前提するなら、この個人に関して、「親としての不安」を抹消することができないであろうある個人(この個人にとっての他者)による「出産をあきらめる」という意思決定=選択行為を、たとえそれが生殖細胞系列に対する技術的な介入を手段とするものであったとしても、「事実」として「完全否定できない」と判断(整合的に記述可能な形での対象化)しているという分析が可能になる。
なお、先に考察したように、この「事実」は、こういった意思決定=選択行為としての生成過程の総体が、その現実の遂行過程における再帰的な(記述可能なものとしての)把握(対象化)を通じて、任意の個人の「価値観」を同時に生成させるという「事実」をも含む。
この意味における「事実」がその<効果>として生成される無意識的かつ意識的な文脈生成過程は、絶えず変容し分岐する生成システムとして、ある個人の記述行為の連鎖において掘り起こされ再構成されていくことになる。
以下、第三の想定事例の分析に移る。
テーマ文1に対して、ある個人が「性の問題に科学による手が加わることに関しては、色々な意味で危険である」という記述を行ったと想定する。
「性の問題に科学による手が加わることに関しては、色々な意味で危険である」という記述は、さしあたり他の(後続する)記述との関連を考慮せずに、この記述のみを見るなら、テーマ文に対して明確に懐疑的な構え(応答の型response-style)を表現していると言える。
だが、ここでこの個人=記述主体が、「性の問題」という言葉にどのような意味を込めているのか、また、もしそのようなものがあるなら、この記述がどのような経験と行為をベースにしたものなのか――さらに、この個人=記述主体が、そのような経験と行為としての意思決定=選択行為の主体であるのかあるいは他の任意の者である<私たち>に過ぎないのか――はここでの記述のみからは分析不可能である。
言い換えれば、ここで問われているのは、この個人=記述主体に関して、ある一定の「自らの価値観」がそれを通じて再帰的に(記述可能なものとして)立ち現れてくる(生成する)経験と行為を通過することで先の記述が生成してきたのかという問いである。
一般論としてなら、遺伝子レベルでの技術的介入(「科学による手が加わること」)は、不可避的に「性の問題」への介入を伴うと考えること――すなわちそのような仮説を設定すること――は可能である。また、仮説である以上、そういった考え方に反論することも可能である。だが、そういった踏み込んだ議論を行うために要求される「性の問題」という言葉の含意がここでは判然としない。
そうである以上、ここでの「色々な意味で危険である」という非常に漠然とした言葉が、単に遺伝子改変一般に対する懐疑の意識を表出している――その場合、この個人=記述主体は、「性の問題」と遺伝子改変(または何らかの先端的生殖技術)を関係付ける経験と行為(現実の意思決定=選択行為)の主体ではない任意の者である<私たち>に過ぎないということになる――のではなく、さらに何らかの批判的な含意を持つものである――その場合、この個人=記述主体が「性の問題」と遺伝子改変(または何らかの先端的生殖技術)を関係付ける経験と行為(現実の意思決定=選択行為)の主体である(あった)という仮説が成立し得る――と言い切ることは難しい。すなわち、ここでの記述のみからそのような含意を分析的に抽出することはできない。従って、上記の記述のみから出発したこれ以上の内在的な文脈生成過程の分析は困難である。
さらに、この個人が、テーマ文2に対して、「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり、自分の子どもに対しては、反対であるが、自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子どもに産んでほしかった」という記述を行ったと想定する。
まず、「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり(…)反対である」という記述は、一見すると、人の属性の階層序列化(hierarchization)または一元的な価値尺度を前提した正負の階層的価値付けに対して批判的であり、これら属性を階層序列化不可能な、または序列化すべきではない「個性」として受容し肯定しているとも読める。実際、ある種の慣用語法として、「個性」という言葉は、上記のような用法においてしばしば使用される。だが、その直前の「よい意味でも悪い意味でも」という正負の価値付けを指示する表現は、上記の属性を階層序列化する何らかの価値観または価値尺度を潜在的に前提していると見ることも可能である。だが、ここではそのいずれかを決定することはできない。
より注目すべき論点としては、ここには「自分の子どもに対しては」という限定がある。すると、「自分の子どもに対しては」属性の技術的な改変、さらには属性を階層序列化する何らかの価値観に対して「反対である」という応答記述は、いったい何を記述したことになるのか。確かに、「自分の子どもに対しては」、技術的操作及びそのベースとなる価値観に対する批判的な構え(応答の型)が一貫していると言える。だが、「自分の子どもに対しては」という限定のもとで、いったいどのような文脈が生成しているのかがここで問われなければならない。この問いは、一定の文脈生成過程としての、この「自分の子どもに対しては」という<限定>そのものの生成過程への問いとなる。
この問いに従って、「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり、自分の子どもに対しては、反対である」という記述を分析するためには、さらに後続する記述を参照する必要がある。
先に見たように、その記述とは、「(が、)自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子供に産んでほしかった」である。すなわち、「自分の子どもに対しては」という限定との対比において、「自分個人」に対しては(「自分個人としては」)、遺伝子改造を肯定しているばかりか、さらには、「遺伝子改変をして欲しかった」という欲望を自覚してさえいる。
「自分の子ども」と「自分個人」という両者に対する相反する構え(応答の型)が、このように一つの記述へと接続されていることは注目に値する。
すなわち、先に述べた「一定の文脈生成過程としての、この「自分の子どもに対しては」という<限定>そのものの生成過程」とは、より根底的には、こうした「自分の子ども」と「自分個人」という両者に対するこの個人=記述主体の相反する構え(応答の型)そのものの生成過程である。
それでは、「自分の子ども」と「自分個人」という両者に対するこの個人=記述主体の相反する構え(応答の型)そのものの生成過程において、「背が高い、顔、皮膚の色等すべて、よい意味でも悪い意味でも個性であり、自分の子どもに対しては、反対である」という記述は、「(が、)自分個人としては、組替えてもらい、もっと頭のよい子どもに産んでほしかった」という記述とどのような文脈を形成しているのか。
ここでの文脈の生成に関して、一つの仮説を考えることができる。それは、「自分の子どもに対しては」という限定が、この個人にとっての、自分の子どもとして想定されているが、自分とは異なる存在である子どもの他者性に対する――さらに敷衍すれば、自分の子どもに対する遺伝子レベルの技術的介入を行うことを想定する際に生じる、この子どもという他者の他者性に対する――無意識的な顧慮を表現している、というものである。
 この無意識的な顧慮という(事態を表現する)概念には、既述の「子どもという親またはカップルとは独立した一個の別人格を持つ他者」という概念が反響しているが、ここではまだ、これら両概念を関係づける文脈を分析することはできない。この「無意識的な顧慮」という事態を、あらためて子どもという他者の他者性に対する無意識的な顧慮の生成過程として捉えるなら、この過程は無意識の生成過程であると同時に、その生成過程の――「子どもという他者の他者性に対する顧慮」という偶発的な様態における――意識化の過程でもあると言える。言い換えれば、この無意識的な過程が、先の個人=記述主体にとって子どもという他者の他者性に対する顧慮の生成過程であったと言えるとすれば、それはこの過程が、この個人=記述主体にとって事後的な記述が可能であったという意味において同時に偶発的な意識化の過程でもあった場合であろう。偶発的であるということは、この過程が、必ずしも「子どもという他者の他者性に対する顧慮」という様態において意識化された(記述可能なものとなった)とは限らなかったということを意味する。
一見当然に思えるが、この個人=記述主体にとって、「自分自身」に対しては、この顧慮は生じてはいない。すなわち、子どもという他者の他者性に対する無意識的な顧慮の生成という無意識的かつ意識的な過程は、同時に、複数の異なる応答記述へと分岐していく偶発的な創発過程でもある。先に述べた、「自分の子ども」と「自分個人」という両者に対するこの個人=記述主体の相反する構え(応答の型)そのものの生成過程とは、この偶発的な分岐の創発過程であった。
もしある個人=記述主体にとって、この無意識的な顧慮の意識化という過程が、再帰的に(記述可能なものとして)捉えられたこの個人=記述主体の意思決定=選択行為の過程であったとすれば、それは同時に、この顧慮が生じる他者としての「自分の子ども」という想定された存在者に対しては、遺伝子改変(遺伝子レベルの技術的介入)は行うべきではないというこの個人=記述主体の価値観を表現する意思決定=選択行為として捉える(記述する)ことができる。
既述のように、ここにおいても、この個人=記述主体が、「性の問題」と遺伝子改変(または何らかの先端的生殖技術)を関係付ける――それを通じて子どもという他者の他者性に対する顧慮が生じるような――経験と行為(現実の意思決定=選択行為)の主体ではない任意の者である<私たち>に過ぎないのか、それともそういった経験と行為(現実の意思決定=選択行為)の主体である(あった)のかという問いが生じる。
だが、先の記述のみからは、以上の問いに答えることは不可能である。このことからも、先の記述において、「性の問題」という言葉の含意が判然としていないこと、そのためこれらの記述と同時に生成される文脈の分析は依然として困難であるといえる。そもそも、ここでは「性の問題」は十分テーマ化されていない。そのことは、次のような想定される事態がはらむ問題が、ここでは全くテーマ化されている形跡がないことからも推測される。
それは、子どもという他者を想定した場合に生じるような、他者の他者性に対する顧慮がここでは生じていないために肯定されている「自分自身に対する遺伝子改変」が行われた後で、この個人が、自らの改変された遺伝子を保有した「自分の子ども」を産むという事態である。そのような事態において、いったんこの個人=記述主体がその傍らを通り過ぎたはずの「自分の子どもに対しては、反対である」という先の言葉が再び回帰することになる。その場合、この個人の改変された遺伝情報がその子ども(自分の子ども)へと、そしてその過程がどこかで(原則として偶発的な要因によって)ストップしない限り、世代を通じて継続して産まれていく子孫に継承されていくことになる。
もしある個人が、遺伝子の改変という問題に直面するなら、そこでは、この私の選択する行為がヒトという種の改変をもたらすことへの認識が求められる。私は、自らが選択した行為の結果としてその責任=応答可能性(responsibility)を引き受けなければならない。だが、この問題に関しては、どのような個人も厳密には責任を取ることができない。もし我々が、種を改変し得る選択をなし得たとしても、その選択の時点から際限なく続く時間の中でのヒトという種の変容に対する責任=応答可能性を負うことはできない。我々は、「原理的な無責任」、あるいは「原理的な応答不可能性」を強いられてしまうことになる。
この個人=記述主体にとっての「子どもという他者の他者性への顧慮」という事態は、この個人による記述と同時に生成される文脈を分析するために、仮説的に想定されたものであった。だがそうであっても、「性の問題に科学による手が加わること」が考えられるとき、「性の問題」と遺伝子改変(または何らかの先端的生殖技術)を関係付ける究極の事態に関わる上記の問題が、この個人=記述主体による記述と同時に生成される何らかの文脈においてリンクしてくるはずである。
次に、この個人が、テーマ文3に対して、「ある意味では賛成であるが、非常に危険な思想であると思う。命という事の根源をもっと、慎重に考えてほしい」という記述を行ったと想定する。
これまでの分析を経てきた現在、このテーマ文3に対する応答記述について言えることはさほど多くない。これまでの分析が、とりわけ「性の問題」という表現がブラックボックスになっていたために困難に陥ったのと同様に、ここではそれ以上に、「危険(な)」や「慎重(に)」の基準、また「ある意味」や「命という事の根源」といった表現の含意が悉くブラックボックス化している。このような場合、これ以上の内在的な分析の試みは固い壁に遭遇することになる。
以下、第四の想定事例の分析に移る。この事例は、分析に際して一貫した理念が想定され得る素朴さを持つものである。そこで、記述の文脈生成過程の分析を通じてだが、この想定された理念の一貫性それ自体を焦点化することを試みる。あえて先取りして述べるなら、分析作業を通じて、この理念の一貫性に内在する創発過程の偶発性が焦点化されることになる。
まず、テーマ文1に対して、ある個人=記述主体が、「現在生きている遺伝子疾患を持った人に対し、差別的な扱いが増すのではないか。遺伝子疾患以外の先天性疾患に対し、差別的な扱いが増すのではないか」という記述を行ったと想定する。
このテーマ文1に対する応答記述は、「差別的な扱い」という表現によって考えられている事態、さらには「差別(的)」という表現に対応する概念の内包の分析作業をいったん括弧に入れ、比較的素朴に解釈するなら、一貫した理念を背景とした批判的懐疑を記述していると捉えることができる。
だがこの様な分析に見られる素朴さは、実際には、容易には分析不可能な複雑さを内包している。まずは、先に想定された「一貫した理念」あるいはその理念の「一貫性」が位置するレベルが問われなければならない。さらには、ある個人=記述主体が、この一貫した理念との関係において批判的懐疑を記述するとはそもそもどのような事態なのかという問いが浮上する。
ここで「一貫した理念」とは、既述の「属性を階層序列化する価値観」に対する整合的な批判(または批判的懐疑)が、個人=記述主体の記述として生成し得る場すなわち文脈の仮想的な<総体>を意味する。言い換えれば、「一貫した理念」とは、それら複数の(可能的には無際限の)記述の整合性がそこにおいて可能になる場としての文脈の仮想的な<総体>を意味する。
ところで、「属性の階層序列化」は、「属性の階層序列化に応じた、そのような属性を持った人の生存の階層序列化」をも意味する。すなわち、属性を階層序列化する価値観は、生存それ自体を階層序列化する価値観でもある。テーマ文1に対する応答記述に即して述べれば、「何らかの遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患」という属性を持った人の生存が、そうした属性を持たない人の生存に比べて「より価値が低いもの」として階層序列化される。それと同時に、そうした属性を持つ者が、「本来は遺伝子改変によってそうした属性が消去され得た(消去されることが望ましかった)者たち」として集団的に一般化されて認知される。
以上のような価値観は、「遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患という属性を持った人の生存は、そうした属性を持たない人の生存に比べてより価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という記述(言表)によって表現される社会的強制力のもとにある。それぞれの事例に関して、現実には遺伝子の改変・治療・予防・発生の予測等が不可能であったとしても、それが現実に可能な事例がすでに存在している(と想定される)なら、本来はその出生(生存)自体が予防され得たという階層序列化が生じる。
ここで言及されている「価値観」は、あくまでも一般性の地平(社会的強制力の次元)において想定されたものとして、既述の「自らの価値観」とは異なる。言い換えれば、上記の「遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患という属性を持った人の生存は、そうした属性を持たない人の生存に比べてより価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という記述(言表)の潜在的な記述主体は、その都度焦点化される現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>である。この<私たち>は、後述する<我々自身の無意識>という潜在的なレベルを指示している。
さらに、先の応答記述を、「これからは生まれてくる自分の子どもに深刻な問題が見つかった場合、産みたい子どもだけを産むことができる」というテーマ文3を先取りするものとして捉えることも可能であろう。その場合、テーマ文1に対する先の応答記述は、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た者」として価値付けられてしまうであろう者に対する「差別的な扱いが増すのではないか」という危惧あるいは批判的懐疑とともに生成したといえる。
ここで、先にも触れた「個々人の選択に際して、技術的な力によってコントロールされた出生の「必要性」が社会的強制力として作用する」という論点が再び浮上する。すなわち、私たち個々人が、いったん遺伝子改造という技術によって「技術的に作られた生(子ども)」を生み出してしまえば、そうして生み出された子どもは、さらにはそれ以外の社会の成員も、<技術的な子どもの生産>という「強制力を持った必要性」を有する社会的制御過程のもとへと組み込まれてしまうという論点である。「何らかの遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患」という属性を持った人の生存は、社会的に「より価値が低いもの」であり、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という社会的強制力が生じる場合、「差別的な扱いが増す」という事態は、こうした(おそらくは暗黙で無意識的な)強制力の効果として捉えることができる。
第二文の「遺伝子疾患以外の先天性(出生以前の何らかの要因に由来する)疾患」という表現の具体的内容を特定することは難しいが、上記のように、一般に遺伝子レベルでの改造・治療・予防・発生の予測等が不可能な事例を想定したものだとした場合、第一文と同様の一貫した理念に基づいた批判的懐疑として捉えることが可能である。先に述べたように、遺伝子レベルでの改変・治療・予防・発生の予測等が不可能な事例であったとしても、それが現実に可能な事例がすでに存在している(と想定され得る)なら、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た者」という序列化は可能である。従って、あらゆる先天性疾患に関して、上記第一文と第二文を通じて一貫した理念――「属性を階層序列化する価値観」に対する整合的な批判(または批判的懐疑)が、個人=記述主体の記述として生成し得る場=文脈の仮想的な<総体>――を想定することができる。
次に、テーマ文2及び3に対して、ある個人=記述主体が「子どもは「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子どもを「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子どもを「作る」という意識は子どもが親の所有物であるような意識につながりやすい。子ども自身の人権は守られるか」という同一の記述を行ったと想定する。
これら記述の含意に関しては、上述した属性及び生存を階層序列化する価値観に対する一貫した理念を意識化(この個人=記述主体にとって整合的に記述可能な形での対象化)したものとするなら、とくに分析困難なところはない。そして、ここでの記述をそのように捉えることは十分に可能である。
ここで注目すべきは、上記の記述が、テーマ文2と3に共通するものとして為されていることである。私たちは、テーマ文1に対する応答記述全体に対して、一貫した文脈の生成を想定することができた。この場合、テーマ文1に対する応答記述の文脈の一貫性は、テーマ文2と3に対する応答記述とともに、属性及び生存を階層序列化する価値観に対する批判的理念――これら記述が生成する場=文脈の仮想的な<総体>――を共有していると考えられる。従って、テーマ文2と3の両者に一貫して応答する場=文脈が、これまでの全ての記述の生成過程において生成していることになる。
私たちは、ここでは仮想された理念それ自体を抽出する作業はしない。その理由は、「仮想された理念それ自体」というレベルが、その都度の記述を織り成す文脈の生成過程に先立ってどこかに存在しているわけではないからである。既述のように、「一貫した理念」とは、個人=記述主体による複数の(可能的には無際限の)記述の整合性がそこにおいて可能になる場=文脈の仮想的な<総体>を意味する。この場=文脈は、これも既述のように、想定された事例に関して遂行されるその都度の分析作業から離れて、あたかも事例としての記述がそこへと置かれる場が事例に先立って存在するかのように、あらかじめ想定することはできないのである。
複数の(可能的には無際限の)記述が一貫した(批判的)理念を共有するというこれまで想定された事態は、より根源的には、そこにおいて複数の(可能的には無際限の)記述を織り成す一貫した文脈が生成される、その都度の偶発的な創発過程なのである。
テーマ文1に対する記述の第一文「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか」には、「優秀(な人間)か否か」という二項対立的であり同時に階層序列的な価値付けが含まれている。一見して当然のように思えるが、まずこのことを確認しておきたい。その基準、あるいは「そうすると」の内容は、テーマ文1を受けているので、「成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができる(のであれば)」である。従って、ここでの文脈は、「遺伝子への技術的介入により難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=優秀ではない」という二項対立あるいは階層序列として生成している。すなわち、ここでも属性(同時に生存そのもの)の階層序列化という文脈が生成している。
ただし、既述のように、こうした文脈が生成しているという事態は、あくまで分析の結果見出されたものであり、この個人が属性(同時に生存そのもの)の階層序列化という文脈を意識化(記述可能な形での対象化)しているという、ここでは仮想されているに過ぎない事態とは独立している。より明確に言うなら、この個人は、上記の文脈(の生成)を必ずしも意識化してはいない。一般に、このような記述を行う個人は、必ずしも属性(同時に生存そのもの)の階層序列化という文脈(の生成)を意識化した上で肯定しているわけではない。そうした意識化は、これもここでは仮想されているに過ぎない。
言い換えれば、こうした文脈(の生成)は、個人=記述主体にとってほとんどの場合、無意識的なものにとどまる。それは、ある個人=記述主体が、例えば「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか」といった先の記述や発話を十分意識して(そのような記述として対象化しながら)行ったとしてもそうなのである。
すなわち、無意識の文脈生成過程を通じて得られた認識は、任意の第三者にとってそうした認識を表出していると見なすことができる記述がなされた後ですら、必ずしも個人=記述主体によって意識化(記述可能な形での対象化)され得ないままにとどまる。一般化して言えば、このことは上述の属性(同時に生存そのもの)の階層序列化という文脈に限らず、どのような記述の文脈(の生成過程)についても妥当する可能性がある。
次に、「優秀な人間ばかりになるのだろうか」という記述部分には、既述の「何らかの遺伝子疾患あるいは遺伝子疾患以外の先天性疾患」という属性を持った人の生存は、社会的に「より価値が低いもの」であり、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た」とする社会的強制力がすでに偏在してしまった世界がイメージされている。つまり、そうした強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界が、「優秀な人間ばかりになる世の中=X」としてイメージされている。言い換えれば、それは、「遺伝子改造による難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=劣等」という二項対立あるいは階層序列が常に既に前提され、こうした属性の除去あるいは出生(生存)そのものの予防という思想と実践が偏在する社会である。
このようなイメージは、それ自体無意識的なものであり、この「イメージされている」という事態も、個人=記述主体にとって無意識的なものである。「社会的強制力が、無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」のイメージ及び個人=記述主体によるそのイメージ作用は、それ自体無意識的なものにとどまる。その意味で、意識化(記述可能な形での対象化)されることなく<我々自身の無意識>を構成するこのイメージは、「何らかの遺伝子疾患という属性を持った人の生存は、より価値が低いものであり、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という<言表>の際限の無い反復を通じてもたらされる記憶痕跡のレベルにある。
次に、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする。親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか」は、一見したところ先の事例に通じる懐疑と捉えることもできる。先の事例では、「子どもは「作る」ものではなく「授かる」ものだと思う。遺伝子操作により好みの子どもを「作った」としても、その子がそのまま「親の思い通りの作り物」になるわけではない。子どもを「作る」という意識は子どもが親の所有物であるような意識につながりやすい。子ども自身の人権は守られるか」という記述であった。この記述には、特に「親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか」という記述部分との明らかな共鳴が見られる。
他方、冒頭の「そうすると優秀な人間ばかりになるのだろうか」という記述には、直後の「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする」との文脈の一貫性を、少なくても先の事例におけるようには明確に見て取ることができない。一見すると、これらの記述(第一文と第二文)の間のみならず、「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする」という記述自身も何らかの「葛藤」(半ば意識化された「心の揺れ動き」)を表現しているかに見える。だが、この記述は、実はそういった「葛藤」を表現しているのではなく、それよりもはるかに根源的な、偏在する<我々自身の無意識>を、あるいは、社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界を暗黙のレベルで指示している。 
このような世界は、苦痛であるというよりも、むしろ耐え難く退屈な世界であるだろう。そこでのキーセンテンスは、「なんだかつまらない気もする」である。それは、今風に言えば、際限のない「ダルさ」を表現している。それは、「もはや、あるいはつねにすでに、すべては超微細レベルで決定されている」といった言葉の際限のない反復で表現されるような「ダルさ」である。ここにおいて、あらゆる時間の関節が外れたかのような、「なんだかつまらない」世界が見出される。だが、個々の記述主体が<我々自身の無意識>に直面するという事態はあらかじめ排除されている。この<我々自身の無意識>は、意識化(対象化)されることなく、あくまでも無意識にとどまっている。